2005年12月09日

透明な仲間たちへ。

2002年5月19日・出口和明先生講演録(『神の国』2002年7月号より引用)

私は現界では医者に見放されたが、神様に綱をかけられたと思っている。
現界にいるうちに出来る限り伝えたい。
話をすればきりがないが、
今日は今迄解決がつかなかった問題が2〜3日前に解決したのでその話をしたい。

それは大正10年の第一次大本事件勃発直前の『神の国』1月号の
実説本心高熊山に書かれたものの中にある
「三大秘密」とは何かということである。

一つは聖師の出生の秘であり、有栖川宮熾仁親王の落胤であること。

もう一つは同じく出生の秘にかかわることであり、
第二次事件の勃発の引き金となった
「あやべにてんしをかくせり〜いまのてんしにせものなり」の
十二段がえしの大本宣伝歌

聖師はこの宣伝歌が当局の手にわたるよう仕組まれたが、
当局は既に聖師の出生にまつわる情報を得ていたために、
逆不敬のおそれから、踏み込めずやがて無罪となる。

そしてもう一つの秘、これが私の中で長く解決出来なかった。
それは『霊界物語』10巻の総説歌に出てくる
「二人の真の吾知己に」の二人とは一体誰をさすのか
古くからこのことについては天皇と皇后という説があったが、
私には釈然としなかった。
そしてもう一度出生の秘と聖師の大仕事を冷静に見直した結果、
この二人というのは厳の御魂と瑞の御魂であると確信するに至った。
(伊都能売の御魂として)

大過去の現在の「天の岩戸開き」は嘘と力で開いたもの。
その投影が大現在の現在では「明治維新」まさしく嘘と力で開いたものである。
そして好むと好まざるとにかかわらず
その主役が有栖川宮熾仁親王であり、その落胤が聖師。
開祖の善の御役に対し、聖師は悪の御役。
しかし聖師はあらゆる苦難に対し愛と真で立ち向かわれた。
つまり過去の嘘と力の過ちを愛と真で贖い、
大未来への投影を正しいものになる様革める。


私が聖師の出生にこだわることによって様々な誤解を生んできたが、
出口家が天皇の血筋であるということ(そんなちっぽけなこと)を
いいたくてこだわったのではなく、
この様に神の経綸というものが血筋までもそろえるという
恐ろしい迄に周到なものであり、
悪の落胤として出生された聖師が
(引用者註:父、熾仁親王は心ならずも嘘と力で開いた明治維新に加担し、
        最後には自らそれを責めて品川御殿で割腹自殺された)
贖い主としてあらゆる苦難に愛と真で立ち向かわれ、
主神の期待に応えられた
(伊都能売の御活動)ということを
『大地の母』の折の姿勢同様正しく伝えたかったということである。

開祖は間違いなく善であるが、開祖だけでは進展はない。
しかし聖師は悪をかぶりながら大仕事をエンジン全開でなしとげられた。
善が良くて悪が悪いのではない。
霊体一致であり、瑞のみが伊都能売になりうる由縁である。



参考資料
出口王仁三郎の時間論(『神霊界』大正11年10月25日号「松葉の塵」より)
*この表の上から下へ、その関連する過去の時代を投影しながら、
 らせん状に時間軸は流れていきます。

      過去
・大過去 現在
      未来
*大過去とは神代の時代のこと

      過去(大過去の過去の投影)…今、われわれから見たいわゆる「歴史」
・大現在 現在(大過去の現在の投影)…今、われわれが住んでいる「現在」
      未来(大過去の未来の投影)…いわゆる一般的意味における「未来」
*大現在とは今の人類史のこと

      過去(大現在の過去の投影)
・大未来 現在(大現在の現在の投影)
      未来(大現在の未来の投影)
*大未来とは真の立替え立直しされた「みろくの神代」のこと

つまり、大過去からの因縁を引きずって、大現在の現在に歴史は投影されます。
その今ある悪の因縁を、嘘と力ではなく、愛と真で立ち向かい、立て直して、
大未来に正しく投影させることが「みろくの世」招来のカギなのでしょうね。


posted by aki at 18:52| 特別編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月08日

あとがき。

偶然、用意した原稿が、
愛善苑発足表明から60年目の今日、12月8日で終わりました。
その偶然を知って以来、最後の数日は心強かったです。
そんなに間違ったことを書いてはいなかったのかな…って。
でも、それで終わらせると、なんとなくイヤラシイ気がするので(笑)、
明日、和明さんの最後の講演録を掲載することによって、
このブログに一区切りつけさせていただこうかな、と思っています。


・僕が第三次大本事件にこだわった理由。
それは、この事件を経たからこそ信徒が得ることができた、
かけがえのない真実があると思うからです。
しかし、それは触れるのさえも辛い歴史のプロセスから生まれてきたもの。
当然、綴る言霊も醜くなってきます。

大本の教えの唯一の根幹、
それは、聖師さまのご神格を理解することであり、
すなわち、霊界物語を真剣に研鑽することだと考えています。

物語にどれだけ素晴らしい救いや気づきが含まれているか…
いや、何も頭を働かせず読んでも、
ただ音読するだけで落ち込んだ気持が驚くほど晴れて、
すっきりと明るく軽くなれることか。

第三次大本事件、
それは愛善苑だけでなく、大本各派の真面目な信徒が
霊界物語を真剣に研鑽するきっかけになりました。
そのほかにも、沢山のかけがえのない “気づき”が得られました。
・教主ではなく一番大切なものは“教え”であること
・開祖と聖師は並列の存在ではなく、
 開祖は先走りで、聖師こそが真の救世主であること
・以前触れた二代さまの
 「開祖と聖師はかけがえのない身魂だが、
  他は神命にかなわなければ、何時でも代替の効く身魂である。
  私も何んとか代えられずに済んだが、実は危いことが何度かあった」
 つまり、教主や血筋=絶対ではないこと
等々…

しかし、聖師様の言葉から考えると祭祀には(理性では理解しかねるものの)
どうやら血も大切、な場合もあるみたいです。
結局、昔、オンラインBBSにも引用投稿しましたが、
僕も、開祖直系の血筋、大出口家(おおいつきけ)は教主ではなく、
その名のとおり斎主の家柄だと思っています。
すなわち、
天恩郷はみろくさま、聖師様を斎き祀る月宮宝座を中心にしているのですが、
その下の段に泰安居(旧・高天閣)があって、
そこには開祖直筆のご神体があったのです。
…つまり、開祖(=大出口家)はみろく様を祀る斎主の家ではないかと。

二代さまは「教主というのは神様にお仕えするのが最大の御用なんや」って、
おっしゃっておられましたし。
物語15巻の「大蛇退治の段」を読めば、
厳瑞どちらが主であり従であるか、わかりやすいですよね。

しかし、
それでも一番忘れてはならないのは、
出口家や聖地や大伽藍や熊野館や愛善苑会館にはさほど重要な意味などなく、
教えが腹にしっかり入った信者だけが神様の宝であること、だと思います。


・僕が天皇問題にこだわった理由。
まず一つには、これだけ証拠が残っているのに、
大本教団が、
聖師さまを外部の学者連から山師・嘘つきのままでいさせることへの
鈍感さへの抗議の意味がありました。
山師の作った詐欺教団へ、誰が新しく入信したいと思うのでしょうか?

また、「真の天皇」が、北朝有栖川宮の男子たる王仁三郎を指すならば、
あれだけ不可解な戦前の天皇賛美運動の隠された意味が分かる気がするのです。
神聖会か青年会の閲兵式かなんかのとき、
聖師が特別ごしらえの刀の鞘からすらりと引き抜いたのが愛善旗、
というエピソードは多くの方がご存知だと思いますが、
僕は、聖師さまは時代を配慮し化けながらも、
反戦・愛善という考え方の根幹は戦前戦後も一貫していたと思うんですよね。
実際に軍国主義的とされる当時の大本の中で育ってきた信者さんは、
軍隊みたいな格好をさせられながらも、
どういうわけかみな反戦思想的なものを聖師様の言動からしっかり培っていて…。


・僕が愛善苑にこだわった理由。
「三千世界一度に開く白梅の花 開いて散りて実を結び
 素の種を養ひ育ててこの世の柱といたす黄金時代が出現いたしたぞよ」
これは錦の土産の冒頭にある言葉です。
白梅の君は聖師さまですし、
素の種は、まさにスサノオの教えの種、ですよね。
開いて散りて…
たしかに、教団というカタチってあまり意味がないと思います。心から。
再興愛善苑だって、やがて散りゆくさだめなのかもしれません。

でも僕個人は、はじめて正しい本当の大本の教義、
聖師と物語を中心とする教義にたどり着けたのは、
出口和明さんがリードした再興愛善苑だと信じています。
で、このたどり着いたものは、歪めてもなくしてもいけない気がするのです。
再興愛善苑はご神号も教主制度も含め、理想的な教団のスタイル、
だと僕が考えていると表現すれば解りやすいでしょうか。

だから僕はネット上で赤恥をさらし、
周囲の心ある人々にご迷惑をかけ続けながらも、愛善苑にこだわってきたのです。

苑には僕よりもはるかに素晴らしい、教えが腹に入った青年会の仲間がいます。
また、こんなブログなんか吹っ飛ぶくらい物語を読み込んでいる、
素晴らしい先輩がいます。

この“あとがき”は僕の今のそのままの気持を書きなぐらせていただきました。
読者の皆さん、僕は来年2月から亀岡にいます。
そこで全ての垣根を越えてお会いできる日を楽しみにしています。
もちろん無所属気分で。それはお約束します。

今回たくさんの方のご好意と良心に触れることができて、
自分的にはものすごく成長できました。
約半年間、ありがとうございました。
心から、感謝しています。本当に、本当にありがとうございました。

それでは、またいつかお会いできる日まで。
posted by aki at 19:16| Comment(31) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第3次大本事件。その26

最後に、昭和20年12月8日(ちょうど60年前の今日ですね)、
出口うちまるさんによって述べられた“愛善苑”の設立趣意と、
『神の国』2002年2月号掲載の出口和明さんによる解説によりまして
この稿を締めさせていただきたいと思います。

出口うちまる
「愛善苑は、大正14年6月に創立されました人類愛善運動の趣旨を、
 そのまま実地に行なっていこうというのであります。
 今日の国内の情勢はまことに悲惨でありまして、
 一切の問題を互いに敵視し闘争をもって解決しようとしているのであります。
 …私共は一切の問題を愛善の心をもって解決していきたいと思うのであります。
 …すべての宗教は元は一つであり、万教は同根である、これが真理であります。
 この真理にめざめてお互いの垣を取りはずし
 互いに手を握りあって平和日本の実現のために、
 平和世界の建設のために邁進しよう、
 これがわれわれの信念であり、主張なのであります。
 …この運動はまず我々の心の中に愛善の世界を築き、
 また我々の家庭を愛善の家とし、
 我々の郷土日本の国を、
 さらに全世界を愛善の苑と化する大理想の下に
 進ませていただきたいのであります」

出口和明
「この趣意はよく知られていることだが、
 今回、
 私は日本を「日本国」ではなく
 「郷土日本」と唱えていることに気づいて、今更に深い感動を覚えた。
 まさに地球は一つであり、日本は世界の中の日本州なのだ
 そして全世界を愛善の苑にするという最終目的が明示されている。
 再生愛善苑もこの目的を見失ってはならないと思う」

                                 (この稿終わり)
posted by aki at 19:02| Comment(52) | TrackBack(0) | 第3次大本事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月07日

第3次大本事件。その25

ふと口から出た言葉でしたが、
なぜかその「2435」という数字が異様に胸に引っかかった和明さんは、
翌日、京都へ用事(観劇)で出かける際、
隣にある愛善苑事務局に
第三次大本事件の勃発から愛善苑再興まで何日かかったかの計算を依頼しました。

夜7時30分ごろ帰宅すると顔色を変えた事務局の人がこう報告したのです。
「昭和55年3月9日の『いづとみづ』設立総会から、
 昭和61年11月7日の愛善苑発足奉告祭まで、ピッタリ2435日でした。
 何度も確かめましたが、間違いありません!」

2435日。
自由を奪われていた囚われの期間を示す「型」の数字。
そして、
その囚われを脱したとき、
団体の名まで変わり、真の姿を現すという、あの「型」の数字


・直が金光教の影響から脱して艮の金神を世に出し、金明会を作る
・第2次事件で王仁三郎が獄中にいた期間であり、皇道大本から愛善苑に変わる
・敗戦で日本が連合軍に占領されていた期間でもあり、大日本帝国から日本国へ
そして、
「いづとみづ」の人たちが大本教団という牢獄でもがいていた期間。
 いづとみづの会から愛善苑へ……。


第三次事件当時の本部側の『更生会報』には、以下のような記述があります。
「もっとも不可解なのは、和明氏のことである。
 もし仮りに今回のことが、栄二氏、和明氏の勝利に終るとしても、
 勝利のうま酒をくんで喜ぶものは栄二氏であって、
 和明氏でないことは誰が見ても明らかだ…」
これを読むと本部にしてみれば本当に権力闘争でしかなかったのですね。
和明さんと『いづとみづ』の会員達にとっては、
真の大本に還すことだけが望みだったのに…。

わが師、和明さんも人の子ですから、
教主に歯向かい、いづとみづを結成し、
そして愛善苑の再興と、自分なりに最善の道を選んできたと信じてきても、
胸中一抹の不安がなかったと言えば嘘になります。
なぜなら、
もし自分が間違っていたとしたら、
和明さんに一緒についてきてくれた仲間を
地獄への道連れにしてしまうことになりますから。

この型の発見はその一抹の不安を一掃させたのです。

(この不安は和明さんの心の底にこびりついていたようで、
 僕も別の示しで、愛善苑は間違っていなかったんだと、
 再確認される和明さんの言葉を幾度か聴きました)

教団の腐敗をあれだけ間近に見ても、
十和田伝説でみろく神業を継承するとはっきりうたわれた和明さんでさえも、
自分が本当に正しいのか…と一抹の不安を思う、
その姿に十和田の龍神伝説を背負った人の子の苦衷を見た思いがしました。
posted by aki at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 第3次大本事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月06日

第3次大本事件。その24

第3次大本事件の裁判(大本−いづとみづ)は、
審理を重ねるうち
教学論争については「裁判所が介入できない問題」であるから、
両者の話し合いに任せられることになりました。
しかし、奉仕者の解雇は、「裁判所が判断できる問題」であったので、
使用者裁量を逸脱した不当処分とされ、
『いづとみづ』側は給与・退職金を勝ち取り勝訴に終わりました。

しかし、この戦いの過程で出口和明さん達には、ある悩みが生じてきたのです。
…教団の腐敗を厳しく突くだけが教団改革なのだろうか、
 もはや教団は完全にウラナイ教化し、良心のかけらも残っていないではないか。
 今こそ聖師が果たそうとして果たせなかった「愛善苑」を再興し、
 あるべき大本の姿を実現するほうが神の意思にかなっているのではないか、と。

また、現実問題として、和明さんの著書により
出口王仁三郎の思想を学びたい人が増えてきていたので、
その新しい受け皿も必要だったのです。

決断した和明さん達は、ついに動き出しました。
“再興”愛善苑は大本の教主絶対のありようを反省し、教主をおかず、
出口王仁三郎を永遠の苑主と仰ぎ、
『霊界物語』を根本経典とし、
奉斎主神・神素盞嗚大神(造物主の一つの神名)をあがめます。
そして聖師の思想を学び、主神に祈り、
その御意思である垣根のない世界の愛善化を目指すのです。

昭和61年11月7日、
熊野館のご神前において有志は「愛善苑発足報告祭」を行いました。
王仁三郎が保釈出所した昭和17年8月7日を記念し、
毎月7日が「いづとみづの会」の月次祭なので、
再発足決定後の一番近い月次祭の日に合わせただけだったのですが…。

その一ヵ月後、和明さんは不思議な符合に気づいたのです。

12月19日、大山に住む大本本部に所属する人物が熊野館を訪ねて来ました。
多くの人がそうであるように、
最初はなぜ教団に歯向かうのかという抗議だったのですが、
次第に理解を示し始め、去り際にこう言ったそうです。
「それにしても、第三次大本事件はいつまで続くんでしょう」
「そうだなあ、そう簡単には終わらんよ。第2次の時だって、
 聖師は6年8ヶ月、日数にして2435日も獄中に入っておられたんだから」
posted by aki at 19:04| Comment(9) | TrackBack(0) | 第3次大本事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月05日

第3次大本事件。その23

6月30日、和明、昭弘、坂田の三人の地位確認初公判が京都地裁15号法廷
…かつて出口王仁三郎も立ったその法廷でおこなわれました。
出口和明さんの陳述です。


教団『大本』は開祖出口直、聖師出口王仁三郎を二大教祖と仰ぎ、
その教えを守り、
神と人と他の命が勇んで暮らすみろくの世の建設を目指す信仰団体であります。
にもかかわらず、権力を握った一部の人たちの野望により、
教団の生命ともいうべき教えが次第にゆがめられ、
その換骨奪胎化が意図的にはかられてきました。

私たちは教団の在り方に危惧の念を抱き、
本来の大本の姿に一日も早く立ち返ることを神に祈りつつ、
ひたすら心の痛みに耐えてきたのです。

教団の将来を思う時、真剣に悩み、かつ自分たちの力不足を嘆きました。
けれど教団の権力機構の中で執行部の不正を正そうとすれば、
迫害は目にみえています。
特に奉仕者の身で、妻や子らを抱えて立ち上がるためには、
非常な勇気と覚悟が必要でした。
そして私たちは、現界的な苦難を甘受しようとも、
死してのち開祖、聖師に復り言できる栄誉を選んだのです。


昭和55年春、いづとみづの会を設立した私たちは、三つの誓いを立てました。
『@大本の教えを守るA大本の道統を守るB大本の聖地を守る』
の三つの誓いをかかげてこの二年余、
私たちはすべてを投げうって戦ってきました。
それに対して教団執行部は
『教団とは何か』との私たちの問いかけをまったく黙殺し、
本年三月、反教団の理由で、坂田三郎、出口和明、出口昭弘の宣伝使剥奪と
坂田三郎の懲戒処分を強行したのです。
三つの誓いによって教団を生命がけで護持しようとする私たちが、
なぜ反教団なのでしょうか。
教えをゆがめ、道統を侵し、聖地の私物化をもくろむ
出口京太郎、森清秀氏らの前執行部、
そしてその路線を継ぐ宇佐美龍堂氏ら現執行部の人たちこそ、
反教団分子そのものなのであります。

教えとは、教団を根本において成り立たせているものであり、
いわば神との契約であります。
私たちはその契約を信じ、ひたすら大本信仰に励んできました。
それが一部の人たちに恣意的にねじ曲げられ
大本が大本もどきに変質してしまったのです。
教団内部の実情をさらけだして法の裁きを仰ぐことは
もとより信仰者としての私たちの本意ではありませんが、
教団執行部の人たちは教えのレベルでは通じない相手であり、
ついに提訴に踏み切らざるをえなくなったのです。
(中略)
裁判長殿、この事件をどうか出口家の内紛とか派閥争いとかの観点から
とらえないでいただきたいのです。
私たちは大本の宗教改革をめざしています。
裁判の過程を通じて教団の腐敗の構造を明らかにしていくことが、
真に本来の大本に立ち返る道につながるものと信じています。
どうぞ厳正なる審判をお願いいたします。
教団のあらゆる役職を奪われ、教団からの離脱勧告を受けている今、
私は祖父王仁三郎の『神に離れて神につき、道に離れて道守る
の言葉がひとしを胸にしみいるのを感じます。
posted by aki at 18:08| Comment(4) | TrackBack(0) | 第3次大本事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月04日

第3次大本事件。その22

直日の言葉によると教嗣変更の理由は、
「直美には欠点はないけれども、夫の栄二が悪いから」でした。

道統の継承順位からいけば直美の長女、直子が継ぐのが当然です。
あえて大本教法をまげ、他家に嫁いだ女性でも良いというのなら、
三諸聖子(彼女の夫は三諸斎)の上に次女広瀬麻子がいるのに
…彼女には跡継ぎとなるべき娘もいますし。

実は、以前から京太郎派の間では「四代は聖子」と語られていたのです。
なぜなら、彼女には子がないので五代は京太郎の娘に継がせられるから…
(第三次事件と関係ないので省略しますが、
 大本本部五代は結局、事情により麻子の子、紅になりました)

この教嗣変更のニュースは新聞各紙が取り上げ、全国に報道されました。

『いづとみづ』はこの非常事態に対処するため『守る会』に呼びかけ、
5月30日綾部市民センターにおいて、
「大本の道統を守る緊急全国信徒大会」を開催します。
緊急の呼びかけだったにもかかわらず、
全国各地から危機感を抱いた約千名の信徒が集合し、
「聖師、二代澄の意思に背く教主継承者の変更を認められない」旨の決議を
採択したのです。


このような動きに対する本部側の対抗策は、
“教主の権威”と“嘘の噂の撒き散らし”でした。
例えば、「出口栄二が玉串泥棒をした」などの事実無根の嘘。
本部側はそれを各地で言いふらしました。
普通に考えれば次代の教主補の座を脅かされているような人が、
自らの立場を危くするようなことをするはずがないと分かりそうなものですが、
悪いことにそれを素直に信じた信徒もまた多かったのです。

三代の世に代わってから長い間、
大本内では聖師・開祖の教えが真剣に研鑽されることはほとんどなくなり、
信者には昇峯や三諸(出口)斎らによる
誤った現教主生神・日出麿救世主論が刷り込まれ、
そして楽天社の活動をきっかけに
誰もが物語の拝読より、茶道や仕舞の上達に心奪われていました。

みろくの神業をする教主にさえ絶対であれば、
神書を読んで下手に理屈をこねるような人間になるよりずっと良い、
そういう風潮でした。
まさに、物語15巻9章「とろろ汁」のウラナイ教の本部
(この本部の漢字のルビはなぜか“おほもと”)の世界そのままに…

「誠の教えを聴かうと思へば、
 目が開いて居っては小理屈が多くって仕様がないから、
 みな盲目や聾ばかり寄せてあるのだ。
 見ざる、聞かざると言うて、盲目聾程よいものは無い。
 此処へ来る奴は、みな高姫サンと黒姫が耳の鼓膜を破り、眼の球を抜いて、
 世間の事が何も解らぬやうに、神一筋になるやうにしてあるのだ」


やがて、「出口栄二を守る会」は「出口直美さまを守る会」に改まります。
これが、現在の「大本信徒連合会」の前身です。
改革運動の主体「いづとみづ」は、そう、現在の「愛善苑」ですね。
posted by aki at 21:01| 第3次大本事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月03日

第3次大本事件。その21

このようないわくつきの宇佐美がとった処置は素早いものでした。
2月25日付で出口和明、出口昭弘、坂田三郎(いづとみづ社長)に対し、
宣伝使解任、
そして本部奉仕の坂田を懲戒免職します。
そして次々と地方の「いづとみづ」「守る会」の有力信徒から
宣伝使資格を剥奪していきました。

4月9日和明さんら三人は宇佐美を相手どり、
地位確認と謝罪広告の掲載を求める訴えを起こします。
5月17日、執行部はいづとみづ会員21名に対して、
とうとう「教団の離脱勧告」を発しました。
憲法の「信教の自由」を無視した完全な暴挙です。


そして運命の57年5月26日がやってきました。
大本総代会がはじめて綾部・亀岡の両聖地以外の場所、
…大阪の都ホテルで開かれたのです。

そこでなんと、出口直日三代教主は
「まことに突然でございますが、
 私のあとを継ぐことになっておりました直美…。
 いろいろ考えました末に、
 今度、四代継承者の資格を取り消すことにいたしましたので、
 よろしゅうご了承くださいますようお願いいたします。
 本当におそれいりました。よろしくどうぞ」
わずかこれだけ述べて退場したのです。

御用総代会は「教主継承規範一部改正の件」を全会一致で可決……

いづとみづが「道統の継承の危機」を訴えて立ち上がったとき、
直日は「ありもしないこと、おこりそうもないことで危機感を煽りたて」
と批判しました。
多くの信者はそれを信じて、
「いづとみづ」の警告を中傷として非難していただけに、
この決定の与えた影響は非常に大きいものでした。

開祖、聖師、二代教主が“神定”した四代教主の道統。
それが様々な野心と策謀の果てに“神定”さえも滅茶苦茶にされ、
なぜか他家へ嫁いだはずの三女、三諸聖子に継承させるというのです。
posted by aki at 22:03| 第3次大本事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月01日

第3次大本事件。その20

「…教祖直が発狂妄言を始めたのが明治25年
 …昭和3年3月3日にミロク大祭を執行し、松の世を建設する
 …ともどもに野望達成の血盟の約を結び、参集した千余の狂信徒に…」

当時の大本は、このあまりにもひどい記事に抗議し、
土井靖都さんが真っ向反論の投稿をしたほどでした。

なお、面白いことに杭迫の第二回の記事では以下のような記述があります。
「王仁三郎が思い上がった不軌の望みを夢み、
 常識ではとうてい思い及ばないような逆意を抱き始めたのは
 何時頃からであろう?又どんな動機からであろう?
 …結論的に言えば、彼の素質というか、
 その血液のなかに伏在していたものなのであった。

やはり、官憲側は有栖川の落胤であることをはっきりわかっていたんですね。

しかし、そのいわくつきの現代人協会に
なぜか昭和30年代になって日向良広や出口虎雄といった
楽天社−内事室グループがしばしば訪問するようになるのです。
宇佐美は昭和40年に同誌を辞め、
その2、3年前に大本教に入信したと言われています。
昭和49年8月、大阪本苑豊中分苑に所属、正宣伝使を拝命しています。

どのような過程を経たのか、わずか2年後には教団中枢部に食い込み、
『愛善苑』誌(昭和51年9月号)グラビアには、
天恩郷の泰安居で撮った一枚の写真が掲載されました。

中央に栄二解任を迫った千葉三郎(元自民党治安対策特別委員長)と、
京太郎総長が並び、両側に出口虎雄と森清秀本部長、
その背後に大阪本苑長と宇佐美が同席している写真が。
…彼らの関係を非常によく物語るグラビアでした。

その宇佐美龍堂が代表役員、兼総長、兼本部長とは…

教団内で何の実績もなく、教義にも無知で、
そのはっきりした経歴すら発表されぬ、一般信徒にも無名の人物が、
一夜にして教団の最高権力を握ったのです。
posted by aki at 22:15| Comment(8) | TrackBack(0) | 第3次大本事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

明日の分も更新します。

用事で更新できそうにないので、明日の分の記事も掲載しますね。
posted by aki at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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